桂舟つれづれ書き

 

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2005/7/31(日曜) 治っていく過程

 ある女性のクライエント(77歳)の方からうれしい報告があった。

 自分の身体の治癒力が増して症状が治っていく時の、ひとつの典型的な経過なので、どうぞご一読ください。

 人はこんなふうに治ってゆきます。特に☆印をつけたところですよ。

 

 5月上旬にはじめて「すばる」に来られたとき、その女性の主訴は、

「階段を下りるとき、膝が抜けそうな感じになる。正座する時、膝が曲がらない」という訴えだった。

 他にも気になっている症状を尋ねると

1、舌の感覚がヘンで、やけどしたみたいな感じ。「物を食べる時、えらい難儀します」

2、若い時、大きな音のする工場で働いていたので、右耳が難聴。「これはもう治らへんわ、お医者さんからそう言われたしーー」

 身体の状態を診てみると、とても強い腎経異常なので、その歪みを治すことに集中して、第一回めは終った。

 

 5日後の2回目の施術のとき、状態を聞くと

1、前回の治療の翌日、立ちくらみがして気分が悪くなったので、横になっていた。その翌日は楽になった。

2、頭痛や立ちくらみが若い時から、しゅっちゅう、あった。

 腎経異常の状態は、やや改善していたが、まだまだOKとは言いがたい。

 ただ1は、腰の状態が変化し始めたために、首や頭蓋骨の歪みが治り始めたからだろうと思われた。

 ☆このように、自分の身体の治癒力で症状が治っていく時には、家の修繕と同じようにある程度の破壊が起こり、その後、再建築(リバランスや新しい組織の形成)が行われていく。

 ☆治るということは、痛み 痛みのない状態、と単純に直線的に変化するのではなく、アップダウンを繰り返しながら、次第に痛みが消えていくことが多い。

 

 その後、4回目までは、5日ごとに治療していったが、4回目の時点で、膝の痛みはかなり軽減していた。また以前からよくあった「立ちくらみ、頭痛」も最近はないということだったが、この方は、腰痛や膝痛(ひざいた)を治すのが上手な所がある、と紹介者から聞いて来られたので、なんで頭痛が治ったのか不思議そうな表情だった。

「頭に触っていないのに、なんで頭痛が治るんです?」と聞かれたのが、僕的にはおかしかった。経絡治療とは、そういうものだと説明するのだが、どうも得心できないらしい。

 

 その後は2週間ごとの施術にしたのだが、8回目で、膝の痛みはとれ、階段の上がり降りや正座ができるようになっていった。

 そうして、難聴について、不思議、かつうれしそうに、こう言われた。

「不思議なんやけど、最近、耳がよく聞こえるようになってきた」、「へー、なんでわかったの?」、「テレビの音量が以前は、16くらいで聞いてたのに、今は8くらいでも聞こえるようになった。お医者さんから補聴器せい、言われるし、治らへん、言われるし、あきらめてたからほんまにうれしいわぁ」

 ☆ 経絡治療は、西洋医学とはアプローチが違うので、西洋医学で治りにくいものでも治ることはある。でも逆に、西洋医学のほうが治りやすいことも、もちろんありますよ。要は、その医術の得意なことは何か、ということです。

 ☆この方は77歳だが、人間の自己治癒力とはすごいものである。一度、そういう事実をみると、「加齢が、加齢が−−」というお題目がバカらしくなるし、年齢のせいで治らないと思っているひとは、医者に暗示をかけられているんじゃないかな、と思えてくる。もちろん、何でも治るわけではないが、少なくとも年齢のせいで、と自分で諦めるのはやめたほうが良い。

 ☆腎経の異常でよく起こる症状は、まず腰痛。歪みが下に行くと膝痛、足首の痛み、上に行くと肩、首、顎関節  の異常、偏頭痛となることが多い。また、腎経異常から難聴など、耳の異常もよく起こる。これは、腰痛を腰の   部分だけの異常とみないで、どこと関係しているかを研究してきた中医学の成果である。

 この方の治療はこれで終了することにしたので、最初の訴えを読み返してみて、「○○さん、そういえば、舌のヘンな感じはどうなったの?」、「あっ、そういえば最近、そうならへんから忘れてたわ」

 ☆治る状態に入っていくと、確かによく忘れますね。痛みや違和感があるから覚えているんだけど、 それが薄れてくると、人間は本当に速やかに忘れてしまえるように作られているみたいです。

 

2004/12/30(金曜) どんな状態になれば---

 心の病というブログの中に、こういう話が載っていた。

 うつ病で2-3年通院している患者さんが、ある日ドクターに
「どんな状態になれば、治ったといえるんですか?」
「気分がもっと明るくなって、安定して---。だからあなたはまだ薬を飲まないといけませんね」

 この人が自分の回復をドクターに決めてもらわないで、自分で決められるようになれたらいいのになぁ。その時は、症状が残っていようとも、少なくとも回復への道を歩き始めたといえるだろう。

 治ったといえる世界共通の状態があるわけではない。両腕が無くて口に絵筆をくわえて絵を描いている画家、昼間は眠っていて深夜、起きだして働く小説家やマンガ家たち、何度受験に失敗しても勉強し続ける司法浪人、社内いじめに負けないで働き続けるサラリーマン--、みんな普通の状態ではないけれども、自分の現状を受け入れて生きている。自分の足で立っている。

 うつ病だろうと、ガンだろうと、手足が無かろうと、イジメにあっていようと、自分の足で立つ生き方はできる。

 そうして、自分の足で立つことは、自然の生き方だ。

 病のあるなしは、自分の足で立てるかどうかにかかっている。

 

2004/12/5(日曜) 注目しないというサポート

 前回の日記(12/3のすばる・ん・日記)で「どうしたら自信がもてるんだろうな」と僕が言った時、考えていたのはクライエントに対する周りの人のサポートということだった。
 サポートというと、「何かをしてあげること」と思う人が多いが、ここでは、何もしないサポート、または注目しないというサポートの重要性について書く。

 数年の間、摂食障害やうつで悩んでいたクライエントが元気を取り戻し、ある職場で働くことが出来るようになった。その職場は病院で、彼女が以前からあこ がれていた所だった。ところが、数ヶ月するうちに仕事のストレスから眠りにくくなり、睡眠剤を飲んだ。不眠が4−5日続くうちに、睡眠剤の量も多くなって いき、ある日、フラフラして彼女は家で倒れてしまった。
 びっくりした母親がすぐに救急車をよび、彼女は緊急入院となった。処置は胃の洗浄だけで終ったが、この一件で、彼女は自分に対してすごく自信喪失してしまい、せっかく勤めていた職場も退社してしまった。

 このような事情をきくと、もったいないなぁと思ってしまう。

 フラフラして倒れた時、もう少し愉気(気を送ること)でもして様子を観ることができたらよかったのに。
 そうして彼女が気づいたとき、「あぁ、疲れていたからお薬が効き過ぎたんだね」とでも言って、その事に注目しなければ、彼女はもっと何事もなく、「ちょっと飲みすぎたかな」とふつうに経過したのではなかろうか。
 注目しないサポートというのは、こういうことである。

 治療行為というと、何かをしてあげることを主にいうのだが、心理療法においては何もしないサポートや注目しない(しかし様子は観ている)サポートが、同じくらい大切になってくる。必要以上に注目すると、本人の心にも、そのことが余計にひろがっていくことになるのだから。頬にできたニキビを気にしていじっていると、どんどん広がっていくようなものである。

 単純な励ましが必要なひと、注目しないサポートが必要なひと、なにくそと怒らせたほうが元気になる人---、様々なケースがあるが、要するにその人の状態を感じ取る、共感するという事が、まず最初のサポートである。

 

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女番頭乱入

そういえば私はずっと注目しないサポ−トを受けてきました(笑)
体の調子が悪いとき、お給料が少ない分、現物支給してもらってもいいんじゃないかと
「先生、なんだか調子が悪くて・・・腰もだるいし・・・」と精一杯しんどそうに訴えるんですが、 ほとんどの場合「あ、そう」で終わり。
「あ、そう、って、整体院のスタッフがしんどそうにしてたら洒落になりませんよ」と言っても
「じゃあ自分でなんかしといて」って。で、仕方なく自分でいろいろやってみます。

本当に悪いときはわかるようで「ちょっとベッドに横になって」と言ってもらえるので
(やったあ・・・!)と喜んで寝ると、ちょちょん、ぎゅっぎゅっ、さっさっさ、で
「はいおしまい」「もう終わりですかあ?」「だってたいしたことないんで」と。
そう言われてどうも納得出来ず不満を残しながらも、「そうか、たいしたことないんだ、よかった」
と思ってしまっている私がいる。はめられてますねこれ。
良く言えばエリクソン的催眠でもありますが。

しかしそのサポ-ト効果はなかなかのもので年月を重ねるうち、そんな工程を踏まなくても、
たいていのことは自分で何とかできるようになりました。
体力のないのが自慢みたいな人間だったのに、確かに飛躍的に元気になって
体力に「自信」が持てるようになりました。
注目しないサポ-トは、冷たい人、と思われることも覚悟でしなきゃならないので
私には難しいことです。

あ---でももう一回、ちゃんとした心身整体、受けてみたいなあ・・・
という思いは消えません(笑)<もう、お金払ってもだめらしい>

注:ちょちょん、ぎゅっぎゅっ、さっさっさは、おまじないではなく、超短いですが本気の施術です。

 

2004/1/20(火曜)  不安という病

 ある人から電話で問合せがあった。「そちらは、どんな治療をされるんですか?」

 

 治療家を決めるとか、師匠を決めるという状況は、もともと不合理なものである。

 なぜならば、クライエントもしくは弟子の側には、相手の力量などはじめから分かるはずのないものだから。

 相手が本物かニセモノかなどわかりっこないという状況で、では、どうしたら良いのか。

 自分の直感で決めるしかないのである。

 なんとなく良いと思った、雰囲気にひかれた、説明が丁寧だったから----。

 何でも良い、とにかく自分が気に入ったのならばそれでOKなのである。

 こういう感覚が薄くなると、人は別の「保証」に頼ろうとする。

 ○○を卒業したから、○○という資格を持っているから、○○に勤めているから---。

 しかし、これは自己矛盾である。

 わけの分からない不安感で悩んでいる人は、世の中には絶対に確かなものなんかない、ということをうすうす感じている。いま、自分の気持ちや状態、誰かとの関係が安定していたとしても、それが続くという保証はどこにもない。だから不安感に苛まれている。それなのに、その気づきに驚いて、更に何らかの保証を懸命に求めようとしても、その方向では、不安感は消えないのだ。

 そうではなく、襲ってくる不安に自分で耐えながら、試行錯誤して、自分なりに確かなものを見つけていく。それが、発見できたとき、知らず知らず不安は消えている。

 例えば、ブッダは、人が老いる事、病になる事、死ぬ事に対して言い知れぬ不安と恐怖を覚えた。そうしてやむにやまれぬ気持ちで、王子という身分や妻子を捨てて出家したのだが、修行中もその不安は何度も襲ってきた。しかし、苦しみながら試行錯誤しているうちに「諸行無常」や「すべての存在は縁によって繋がっている」という悟り(認識の転換、新しい見方の発見)を得て安心を得たのである。

 大げさに言えば、私たちも自分なりに一種の悟りを体得しなければ、不安というものは消えないのではなかろうか。

 今までと同じ事をしていて、同じ考え方では安心は得られない。

 深い不安を感じたときは、今までの古い自分から脱皮するべき時なのである。

 

2003/9/4(木曜) 技術の効かせ方

 体の治療と心の治療を統合した治療技術を身につけたい。

昔から、そんなふうに考えていた。そんな気持ちから、いろんな健康法や治療技術を学んでいった。気功療法、カイロ、キネシオロジー、食事療法、催眠、野口整体、操体法、筋診断---。

そうして特に、天才的な人の治療技術が、ぼくらフツー人とどう違うのか、という事に興味があった。

最近はすばるで行っている授業のために、ミルトン・エリクソン(エリクソン流催眠と心理療法の開拓者、精神科医)と野口晴哉(野口整体の創設者)のことをもう一度、研究していたのだが、そのことについて述べてみる。

どちらも天才的、ではなく、はっきり天才である。たとえば、エリクソンの治療エピソードをひとつ。

ある男の子が夜尿の治療のために母親に連れられてきた。ところが、夜尿のことに触れられたくないと願っていたその子の心を感じ取ったエリクソンは、夜尿には全く触れず、その子の好きな野球の話をしはじめた。

ボールがきたら、こんなふうにキャッチして--、バッティングはこうで--。こんな話ばかりをして、エリクソンはその子を帰した。ところが、その子の夜尿はすみやかに治ってしまった。

同じように、話しただけで治療したケースは、野口晴哉にもいっぱいある。

慢性のひどい胃潰瘍で悩んでいた女性が治療を求めてやってきた。治るでしょうかと聞く女性に対して、野口「たしかにあなたは胃潰瘍のひと特有の顔つきをしてる。きれいな顔なのに、もったいない」。「どうしたらいいでしょう?」、「せめて寝る前に鏡を見てきれいな笑顔をつくる練習をしなさい」

これで女性は治っていった。

どちらにも共通している事は、何だろう?

それは、患者の心をうまくつかんでいることだ。うまくつかんでいるからこそ、その気持ちを転換することができる。心が転換するという事は、身体も転換するという事である。

このようなことを「技術の効かせ方」と定義してみると、技術には、技術それ自体の体得と技術の効かせ方の体得と、この二つの段階があると思う。

たとえば、筋診断でいうと、筋診断自体の技術をマスターすることとその技術を患者に実際に効かせることとを分けて考えてみようということである。

すると、技術の体得が6点(10点満点)で効かせ方が3点の人より、体得度4点・効かせ方6点の人のほうがうまい治療が出来る、といったことが見えてくる。

古今の名人は、こういった技術を効かせるということを、臨機応変に非常にうまく行っていたように思われる。

筋診断で治療する場合も、そういった点から見直してみるとどうだろう。

例えば、色が体に効くことをどのように効果的に患者に伝えるか、診断筋が緊張している事をどのように伝えるか、筋診断治療を行っていく中での患者の心のつかみ方---、そういったことは、もっともっと工夫の余地があるように思われる。

最近、そんな事に関心をもち、いろいろと試している。

 

2003/3/22(土)   ネガティヴ

 ある人(Aさん)が体の異常を訴えて、来談された。

 聞けばAさんは、天源陶宮術(てんげんとうきゅうじゅつ)を、もう5年ほど習っているという。

 天源陶宮術とは、十二支をもって判断する占いの一種で、その人の心の悪癖を改善することを目指した修養法でもある。

 Aさんの話を聞くと、毎月、例会があり、そこで会員がそれぞれ自分の身のまわりの出来事を話す。それに対して先生が、「それは、あなたの持っている演宮(十二支の寅のこと)のこういう心癖が出ているからだ」と指摘して諭してくれる。ところが、その例会にムシの好かない人がいて、もう私は出たくない。でもいま、中伝まできたので、もう少しがんばって奥伝を修得したい。どうしたら良いだろう、という。そのジレンマで、体調を崩されているようだ。

 体の調整と心理療法をしていて、Aさんはすごく自分のことを否定的に捉えている感じを受けたので、「Aさん、それじゃ、あなたの持って生まれた子、丑、寅という3つの星の良い面を考えてみて。良いところを100パーセント生かしたら、どんな性格になりますか?」

 そう言うとAさんは絶句して「そんなこと、考えられません。だって私は、自尊心が強くて、傲慢で、でしゃばりで、----」

 すらすらっとよどみなく、自分の心の悪癖を5つか6つ、並べて嘆かれるAさんの姿を見ていて、「なんでそうなるのかなぁ」と、無意識にため息が出た。

 陶宮術を、どうして、自分の可能性や良い所を伸ばすために、使えないのか。

 どの星にも良い所と悪い所がある。その時、悪いところばかりを見つめて、そのことだけを、自分の無意識にインプットしていって、何になるんだろう?

 天源陶宮術、数秘術、O-リング テスト、催眠、心理療法----、どんな技術にせよ、自分を生かすために用いるべきであって、自分を殺すために用いるべきではない。

 

2003/3/20(木)   学び方のコツ

 フォーカシングの入門講座に参加した。

 講師である大学教授のAさんいわく「2時間でフォーカシングの事に触れるのは大変ですから----」

 それはそうでしょう、と思ったが、行う内容が、腕を持ち上げて放してみて脱力しているかどうかとか、ほんとに幼稚園レベルのことばかり。

 いったい、入門と上級を分ける必要があるのかなぁ?

 ものを習うとき、初級⇒中級⇒上級と習っていかねばならない、という考えが、もう一つ、ぼくには得心できない。

 それは、教えるほうの都合であって、習うほうに都合の良いやり方じゃないだろ、と思ってしまう。

 例えば、子供が自転車に乗るときのことを考えてみてほしい。

 こけたり、よろよろしたりしながら、自然に楽しんでマスターしていく。

 自分で楽しんでマスターしたものであれば、もっと楽しもうと工夫して、片手乗りや両手放し、ウィリー走行、ジャンプ、といったことも自分で身につけていけるだろう。

  どうも、僕はこれが理想だと思っているようだ。

 「どうも」というのは、果たしてみんなに勧められることかどうか、判然としないからだ。僕はこういった方法を好むけれど、そうではなく、「何事も、基本から始めないと上達しない」と思い込んでいる人が多いことも知っている。

 思うに、「何事も基本から」という考えには、二つの大きな欠点がある。

@ 先生が決めた基本どおりに練習しないといけないから、決して先生以上に上達しない。

A 自分の感性に従うということができないから、自分のスタイルになりにくい。

 

 孔子や千利休、イチローなど、それぞれ自分のスタイルを作った人は、肝心な所は自分の感性で工夫してひとり稽古をしていった。その結果、自分のスタイルができていったのである。

 基本から始めないと上達しない-----これは思い込みじゃないのかな。こんな思い込みで、自分の可能性を狭めるのは止めましょう。

 孔子は、このことを簡明に述べている。

 子曰わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。 (論語 雍也編)

(意訳) 頭で知っているだけの人は、それを好きでやっている人には及ばない。好きでやっている人は、それを楽しんでいる人には及ばない。

 例えば、サッカーを知っているだけの人より、サッカーを好きな人のほうがよりマスターできる。サッカーを好きな人より、サッカーを楽しむ人のほうがよりマスターできる、ということである。

 こういう調子で、自分の興味のあること、楽しめることを中心に、何かを学んでいくほうが、本当は身につきやすいのではなかろうか。

 みなさんもお試しあれ。 でも師匠には嫌われるけどね。

 

2002/03/03(日)    思い込みのリセット

 ひとはだれでも、自分固有の思い込みを持っている。

 「わたしは運が悪い」「わたしを、好きになってくれる人なんかいない」「自分は生きてる価値が無い」---。

 こんなクライ思い込みをしている人って、ホントにいるの、と思われるかもしれないが、実際、いるのである。
 そうして、たとえば、ある人が「わたしを、好きになってくれる人なんかいない」という思い込みを持っていたならば、たとえ誰かが彼女に愛情を告白したとしても、その思い込みを変えることは難しい。

 <いまだけよ。きっといつか私を嫌いになってしまう。そうして私は捨てられるんだわ>

 心の奥底でそう思っている彼女は、なかば無意識のうちに、嫌われるように、嫌われるように行動していき、願ったとおり、彼に捨てられる。

 <ほらね、やっぱりよ!>

 この、こっけいな悲劇---。
 ネガティブな思い込みを抱きしめて生きている人達には、こういった事がちょくちょく、起こる。

 ぼくが心理ヒーリングで行っていることは、この悲劇的な思い込みのリセットである。
 クライエントの人達は、我知らず親からインストールされたり、また、不幸なことに自分自身の経験から、こういった思い込みを持ってしまったのだが、幸いなことに、新たなプログラムをインストールして、古い思い込みを無効にしてしまうことができる。

 このリセットは、次の4つのステップをとおって、行われてゆく。

1)自分自身のネガティブな思い込みを発見する。

2)その思い込みに対して、新しい自分をまず、ことばで創造する。
なりたい自分を、端的な言葉で表現する。自分の心に抵抗が起きない、得心できることばを選ぶこと。
例 「誰かが私を好きになってくれる」ということばでは抵抗があるなら、「私が愛情を贈れる人が現れる」「愛情を分かち合える人が現れる」など、自分に納得できることばにする。

3)新しい自分を、ぼんやりとイメージしたり、そのことばを落書きしたりする。
細かくイメージしないこと。大ざっぱなほうが、無意識の力が働きやすい。「落書きする」というのも、その意味。

4)新しい自分がインストールされていくにつれ、現実生活でのトレーニングが起こってくる。
つまり、古い思い込みが抵抗してくるのである。
たとえば、上記の例なら、本当に自分に人を愛せるか、という切実で重い体験が、現実に起こってくるのである。

 「願ったことは実現する」という耳ざわりの良いことばは、事実の半分でしかない。現実には、なんでこうなるのか、と思えるような苦しい体験のほうが多いと思う。何年も自分の心の中に巣くってきた古い思い込みが、全力で抵抗してくるのだから、生易しいことですまないのは明らかだ。くれぐれも、安易に考えないこと。

 このしんどさを言い表すのに、臨床心理学では、「死と再生」のテーマが、よく使われる。つまり、古い自分が死んで、新しい自分として生まれ変わってくる、ということ。
 実際、そのくらい、しんどい事なのである。
 しかし、そのしんどさを、やりぬくことによって、はじめて新しい自分のイメージが本物になるのだから、臆せず、しかし細心に進んでほしい。
 そうして、リセットが完了したとき、それは文字どおり、自分が生まれ変わる体験となる。

 

2001/08/15(水)  肚を決める

 市川猿之助(61歳)さんが、藤間紫(78歳)さんと入籍した。

 このことを知って、「猿之助さんは、紫さんとのことは、肚(ハラ)を決めていたんだなぁ」と、とてもすがすがしい気持ちになった。

 芸能記事のレポートによると、

 猿之助(1939年生)が紫(1923年生)に出会ったのは小学6年の時。それまで習っていた舞踊のけいこを花柳流から 藤間流に変えたのがはじまりだった。その時、紫は28歳で藤間流6代目宗家・藤間勘十郎の妻だった。その後、猿 之助は1965年に女優・浜木綿子と結婚。長男をもうけたが、3年後に離婚。この時すでに紫との関係が取りざた されていた。紫も83年、7代目宗家を長女・高子が継いだことから夫婦間の亀裂が表面化。85年には6代目から 「不貞料」として3億5千万円を請求される前代未聞の事態に発展。不貞の相手として新国劇の重鎮・辰巳柳太郎と ともに猿之助の名が挙げられていた。紫は87年、独立して紫派藤間流を旗揚げ。ドロ沼の離婚劇は90年12月、 6代目が90歳で亡くなることでようやく決着した。

 肚を決めるということは、なかなか、難しい。

 たとえば紫さんが不貞で訴えられたとき、マスコミは、猿之助と紫との関係を書きたて、テレビのワイドショーは、不倫だ不倫だと、まるで社会の敵でもあるかのように騒ぎ立てて糾弾した。

 そんな状況では、いくら本当の気持ちを語っても、かえってあげ足取りをされるのが関の山である。そんな中で、あなたは黙って耐えていることができますか?

 こんな四面楚歌の状態でも、耐えられたのは、猿之助さんの肚が決まっていたからだ。

 逆に、肚の決まっていない人はどうなるだろう? こんなスキャンダルはお互いのイメージダウンだからとか、いろいろな損得を計算して、別れる−続けるの間を行ったり来たり、フラフラするのではなかろうか。

 ぼくは肚の決まらない人がキライだ。とくに、損得だけで自分の行動を決めるひとが好きではない。損得の計算もある程度、必要だが、「人生、意気に感ず」ってこともあるだろう。

 「かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」という和歌もある。

 自分がこうすると肚を決めたことは、人に何を言われてもかまわない。何と言われようともこれを貫く。

 これが、肚を決めるということだ。

 だから、一生のうちで、自分が肚を決めなければならないことは、そう何度もあるものではない。

 しかし、肚を決めなければならない時には、肚を決められる人になりたいと思う。

 そのほうが、元気に生きられる、絶対そう思う。

 

2001/07/12(木) 質問 あなたならどうする?

 質問「あなたはいま、大きな大きな、真っ暗な部屋の中にいるとします。あと数分でこの部屋が爆破されるので、早く外に脱出したいと焦っているのですが、本当に真っ暗で、どこにドアがあるかはもとより、ドアのある方角さえも全くわからない。この状況で、どうすれば、いち早くドアにたどり着けるでしょうか?」

 あなたなら、どうしますか?
 下の文章を読む前に、自分でためしに考えてみてください。

 ぼくの答は、「どの方向でもいいから、とにかく歩め」です。
 そうすると壁にぶつかるから、壁をたどって行けば、やがてドアに出くわします。

 いちばんダメな答は、
「ドアがどの方角かわからず、恐怖のあまり立ちすくんでしまう」です。

 もうひとつ、「逃げようとして、ある方向へ駆け出すんだけど、これで本当に正しいのだろうかと迷いだして、行きつ戻りつする」というのもあります。

 こういうクイズならば多くの方が正解、もしくは正解に近い答を考えつくのですが、これが仕事や人間関係などの現実問題となると、ことはそう簡単ではありません。
 本当にこれでいいんだろうかと「行きつ戻りつ」したり、パニックになって「立ちすくんでしまったり」することがざらにあります。
 また、あたまの良い人であればあるほど、どの方向にドアがあるかを予測しようとエネルギーを費やしてしまい、タイムアップとなったりします。

 もしいつか、あなたがこういう状況に出くわしたら、肚(ハラ)を決めて、ひとつの方向に歩み続けてください。
きっとそれが、いちばんの近道です。

 

2001/06/23(土) 超能力・霊能力

 先日、知らない人から突然のファックスが届いた。

 「自分の知人に超能力者がいる。文部科学省のある博士がその人を実験し、本物の超能力者だと認めた。そのビデオもある。このパワーの特長は、人体に対してはガンなど病気が治る、人の顔面にパワーを当てると10歳くらい若返ってしまう、金魚に当てると、突然えさを食べなくなる−−−。 この力をあなたの仕事に役立てられませんか? ご希望なら、資料をご請求ください。」

 僕もむかしは、超能力が好きだったなぁ。

 超能力を持ちさえすれば、いろんなひとを助けられるし、あらゆる悩みは解決する、と単純に信じてた。そうして、サイババやダライラマをはじめ、いろんな霊能者をみたし、会いに行ったりもした。でも、サイババやダライラマに会っても、何の感激もなかった。

 あんなに超能力にあこがれていたのに、何故だろう?

 自分自身、不思議な気がして考え始めた。

 そうしてたどりついた答は、「超能力だけでは、本質的な意味において、ひとは救われない」ということだった。

 たとえば、貧乏に悩んでいるひとがいるとする。その人に超能力で、お金を儲ける方法や宝くじの当たり券などを教えたとする。そうして、そのひとが金持ちになったとして、果たしてその人は幸せになるだろうか?

 たぶん、お金が儲かったら儲かったで、別の心配や不安を作り出すことだろう。

 たとえば、夫婦関係で悩んでいるひとがいるとする。

 そのひとが霊能者に、「あなたと夫とは、前世でかたき同士でした」といわれて、何かが解決するだろうか?

 いままで会った、いろんな霊能者の中には、ぼくのプライベートな出来事をピタリと当てた人が何人かいた。でも、だからといって、そのときの僕の悩みが解決したわけでは、全然なかった。

 僕にとっては、そんなことは何の意味もないことだ。当たり前でしょう!? その悩みは、僕が自分の力でぶつかって、乗り越えていかなければならない、たましいのテーマなのだから。

 僕の場合、その悩みは、野口晴哉先生や橋本敬三さんなど、すばらしい治療家の言葉を聞くことによって癒されていった。

「生き切った者にのみ安らかな眠りがある」(野口晴哉)
     そうか、自分の人生を自分がどう生き切るかが、大切なんだよな。

「痛かったら、快方向に動けばいいんだよ」(橋本敬三)
     悩んだ時には、自分の快い方向を求めてゆけばいいんだな。

 この深い人間理解。

 霊能者や超能力者、宗教家に、ああだこうだと言ってもらうより、ぼくにとっては、こちらのほうが、ずっとありがたかった。そうして、このほうが、よっぽど世の中を変える力になる、と確信した。

 そのときから、ぼくも、この人たちのように、人間を理解する仕事をしたいと思い始めた。

 

2001/04/12(木) 最近の感激

 4月○日  月刊全生4月号より、野口晴胤さんのエッセイ 「天心」

 ある人が野口晴哉先生に教わった操法で、見事に喘息の発作を止めることができた。得意満面で帰ってきて、そのことを報告すると、晴哉先生は「止められることがわかったら、今度は黙って平然と見ていなさい」と言ったそうだ。それは相手の力で経過するのが一番よいからだ。そして、これが技術の真の用い方というものである。

 すごいなぁ、晴哉先生は。

 ここでいう「黙ってみている」は、もちろん無関心に黙ってみている事ではなく、「相手にコミットしたまま、または共感したまま」黙って見ていることであり、このことの難しさは、心理カウンセリングをしている人ならば、みんな痛感しているだろう。体の治療であれ、心のサポートであれ、その人を自立へ向かわそうとするならば、「黙ってみてる」ことが本当に大事だよなぁ。

 4月○日 気功協会の通信より、あんのますみさんのエッセイ「体を通して実感した事だけを信じる・野口三千三先生の授業風景」

 「社会が、人が言うからって鵜呑みにしちゃいけない、何でも必ず自分の体を通して確かめてみる・実感する・なるほどと納得する・その手順を踏まないと大変なことになるよ」 常に何事も自分の体を通して検証しないと納得しない、それは見事なまでにも徹底した態度でした。そこで大切になってくるのが、言葉の世界です。「今すぐにまとまらなくても良いから、不完全を恐れずに言葉にする努力をしつづけよう」「そのことで感覚が発達し、能力が伸びる。今、体の感覚が貧困なのは、体の中の変化を言葉にすることを怠けてきたからだ。それはきっと体を蔑視してきたからだろう」

 気功のワークショップのとき、「どんな感じでしたか?」「どんな感覚でしたか?」と問うと、わかりません、と答える人がいる。

 感覚は、文字どおり、感じるもので、わかるわからない、というものじゃないのになぁ。
 そんな人たちは、自分の体を軽くあつかってきたのかな。

2001/04/04(水) シンクロニシティを受け止める

 シンクロニシティとは、共時性と訳され、ユング心理学では重要な概念である。

 シンクロニシティとは、「意味のある偶然の一致」のことであり、シンクロニシティに対して心をオープンにすれば、わたしたちの人生を自分のたましいのテーマに沿って、大きく進めてゆく事ができる。

 シンクロニシティに注目することは、このように非常に大切なことなのだが、最近ではこのシンクロニシティがあまりに知られすぎて、ちょっと首をかしげたくなるような事を言う人も、ままある。

 シンクロニシティに注目するときは、自分がどういう問題意識をもっているかが、極めて大切である。

 例をあげてみる。

 例えば、ぼくは大学生の頃、小説を書いてみようと思い立った。そうして主人公の名前を現代にはあまりないものにしようと思い、「弓小路(ゆみのこうじ)」と名づけた。そうしてその翌日、僕の研究室に置いてあるコピー機の保守点検のために若いサービスマンのひとが訪ねてきた。そして、彼が差し出した名刺をみると、なんと弓小路という名前の人だったのである。

 「はぁー?」 しばらく、あいた口がふさがらなかったですよ、実際。

 次にもう一つ。

 鎌倉時代のこと。仏道の修行をしていたある坊さんがいたのだが、どんなに修行しても、彼の脳裏からはどうしても一つの大きな疑念が消えなかった。それは、「一体、本当に極楽はあるのか?」という思いだった。極楽がないのなら、自分のしている全ての修行は何の意味もなく、徒労に終わるではないか。

 厳しい修行をすればするほど、彼にはこの思いが強くなり、とうとうある日、彼は意を決して辻占(つじうら)をしてみようと思い立った。辻占とは、占いのひとつで、道を行く人が最初に言った言葉が自分の占いの答になる、というものである。

 さて、夏のある暑い日、なんとかして仏様から答をいただきたいという一心で、彼は比叡山からおりてきて、京都の辻に立った。夏の暑い日差しが、容赦なく照りつける。彼の額から、首から、体中から、汗が噴き出した。しばらくすると、そこへ一人の旅人が、やってきた。その旅人が彼の前までやってきたとき、突然、一陣の風が吹いた。

 「あぁ、極楽、極楽」 汗をぬぐいぬぐい、その旅人がつぶやいた。

 そのつぶやきにハッとした坊さんは、「ありがたや、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏----」、と身震いし、感激に声をふるわせた。

 いかがだろう?

 僕の場合は、たしかに驚きだが、それはそれまでの話である。それに比べて、坊さんの場合は、なんと大きな意味をもつシンクロニシティだろう。これは、かれの問題意識、問いかけがそれほど大きかったからである。つまり、彼は自分の人生をかけて、「極楽はあるのか!?」と問いかけたのである。だからこそ、すごいシンクロニシティが返ってきたのだ。

 シンクロニシティに心を開き、本当に自分が教えてほしいことを問いかけてみてください。 

 あなたの問いかけの重さに応じて、何かが必ず、返ってきます。

 

2001/03/06(火) あなたに伝えたいこと

 セミナーが終わったあと、ある人いわく「先生のセミナーに出て、宇宙とつながることが大切だと感じました」

 僕、こころの中で(フンフン)。

 その人、続けて「愛や光を多くの人に伝えるって、ステキですよね」

 僕(えっ!?)

 「先生はいつから、ハイアーセルフにつながって、愛を伝えることを始められたんですか?」

 (オイオイ)---、僕の当惑はますます大きくなる。

 ニューエイジ的な愛や光、ハイアーセルフといった話をハイテンションでする人は、なんだか、とってもうさんくさい。

 その人は、僕の当惑をちっとも感じてくれず、ハイアーセルフや愛、光といった話を情熱的に語って、帰っていった。

 たしかに、セミナーのとき、宇宙とつながる、という言葉は使ったし、そうなって欲しいと思っているのも事実だ。しかしそれは、僕にとって、宇宙イコール自分のたましいだからだ。自分のたましいとのつながりを取り戻すことによって、自分の本当に望んでいること、進みたい方向が見えてくる。僕自身、その結果、治療が自分の天職だと確信できた。だから生き方に悩んでいる人は、ぜひそうなって欲しいし、セミナーや心理療法のとき、そのことを語ったりもする。しかし決して最初に、愛や光を伝えることはすばらしいこと、そのために人間は生きているというテーゼがあるわけではない。はっきり言うと、その考えはあまりにキリスト教的で、僕は全然、好きじゃない。

 僕が願っているのは、自分のいのちを生き切りたいということだけだ。

 野口晴哉先生の「生き切ったものにのみ、安らかな眠りがある」という言葉をはじめて知った時、あぁぼくはそれをしたかったんだ、とすごく得心した。

 そして、そこから自分が自分のいのちを生き切るにはどうしたらいいかと考え始めた。その結果、自分のたましい(=ハイアーセルフ)とのつながりを取り戻す、ということに行き着いた。

 だから、ぼくは、自分のいのちを生き切ろう、そのために自分のたましいとのつながりを取り戻そう、と考えているわけで、その結果、どう生きるかは、まったくその人の自由だと思っている。極端な話、自分のたましいとつながった結果、お金儲けをしたいと感じたならば、それはそれでいいんじゃないか、と素直に思える。

 決して、愛や光を伝えることだけが唯一の選択肢ではない。

 

2001/01/27(土) 頭の知識、体の知恵

感覚とは錯覚のことである。錯覚以外の感覚は事実として存在しない。
理解とは誤解のことである。誤解以外の理解は事実として存在しない。
判断とは独断のことである。独断以外の判断は事実として存在しない。
意見とは偏見のことである。偏見以外の意見は事実として存在しない。
                「野口体操 自然直伝 野口三千三語録」(柏樹社、1999)

 野口さんっていいな。こんなことがさらりと言えるんだもの。

 野口さんは、体育学の教授だったが、それを卒業して、野口体操というユニークな世界を切り開いていった人。身体から出発した人だから、頭の知識だけからじゃなく、自分の体の感覚としてこんなことが言えるんだと思う。

 野口さんが言うとおり、ぼくらはみんな、自分独自の錯覚と誤解、独断と偏見の世界に住んでいる。だから、「こんなことしたら、こうなってしまう、人にこう思われる」という絶対的なものは何もないんだ。離婚したら子供が不幸になる、こんな親に育てられたから自分は不幸だ、この学校に入れなかったら落伍者だ、経済力がないから一人では生きていけない、こんなことしたらあの人に迷惑がかかるからできない-----。

 頭(知識)から世の中を考えると、こんな思いがすぐに渦巻いてくる。僕らは、学校教育の中で、頭の知識で物事を考える、予測するということを何年も何年も訓練されてきているから、用心しないと、オートマティックにこういう考えに流されてしまう。

 頭の知識だけで物事を予測するのを、しばらくやめよう。

 自分の体の感覚、体の知恵をつかって、考えるのではなく、感じてみよう。

 そうすれば、もっと違うことが見えてくる、きっと。

 さっきの本に、こういう一節があった。

 「さわやか」という感じをもつことができる状態を「しあわせ」という。

 自分の体の感覚で、幸せを見つけよう。

 

2001/01/25(金) シンクロニシティ、神様の贈り物

 1月○日
 Aさんとのセッション中、電話がかかってきた。応対するスタッフの声が、Aさんとぼくの耳に入ってくる。
 「うつ病が治るかどうかですか? 治った人もいるし、治らなかった人もいます」「心身整体は、心理療法と整体を合わせ た治療法で----」「一回で治るかどうかですか---」

 ドカンドカンと大砲のように、色々な質問を浴びせられているらしい。
 ふとAさんに「どう思う?」と尋ねてみた。
 「あれこれ聞くより、さっさと来たらいいのに」と、やや憤慨した口調でAさんが言った。
 「説明を聞くのと実際にうけてみるんじゃ大違いなのに---」
 「それだけ不安なんだろうねぇ」
 「でも、いくら説明を聞いたって、自分の不安が解消するはずがないのに。来てみて、イヤだったらやめればいいんだし。まず体験してみなくちゃ---」

 Aさんはそこまで言ったあと、僕のほうを見た。そうしてAさんと僕はふたりで笑い出した。

 そう、まさにそれこそがAさんの問題だったのだ。いろいろとああしよう、こうしようと考えるのだが、いざ実際にやろうとすると、第一歩が踏み出せないでいるAさん。

 料金はとか、タクシーで来るにはとか、まだ答え続けているスタッフは、ぼくらの大きな笑い声がじゃまらしく、隣室に消えた。

 「自分の姿を、はたから見てみるとオカシイよね」
 「ホント、バッカみたい」Aさんはまだ明るく笑っている。「わたしも、あんなんだなぁ---」
 「このシンクロニシティは、あなたの神様があなたに与えてくれた贈り物。しっかり味わったら」

 そのとき、隣室からスタッフが帰ってきて、「タクシーでの来かたを聞かれたから、答えている内に切れちゃった」

 「自分のイメージと違うと思ってかってに切っちゃたんだ。あぁ、ますます私にそっくり!」

 面白がりながら嘆くAさん。

 電話の彼女、ありがとう。Aさんに大きなヒントを与えてくれて。